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エヴァンゲリオン

seva

 

ネタバレはしないのでご安心を。

 

テレビシリーズが放送終了した1996年。

私は当時、熊本の広告代理店に勤務。熊本では放映されておらずインターネットもそこまで普及していない時代。

「エヴァンゲリオンというとんでもないアニメがあるらしい」と社内で話題になりはじめ、その存在を知った。

ジブリ以外の作品でアニメが話題になることはめずらしかった。ましてやエヴァンゲリオンは巨大ロボットアニメ。だがその反響は普段アニメに興味がない層からもその名が出るほどだった。

 

最初はレンタルビデオで観た。

衝撃だった。DTP系フォント[マティスEB]を使用した洗練されたタイトルデザイン。主役らしくない禍々しいデザインのロボット。というかそもそもロボットじゃなかった。全く説明されないまま進んでいくストーリー。使徒と呼ばれる簡単すぎる造形の謎の敵。宗教から引用された名を持つ難解な設定の数々。人間の内面に深く切り込んでいくシナリオ。人間ドラマだけでエヴァが全く出てこない回すらある。ビデオが壊れたかと思うほど長く沈黙させるなどの特異な演出。そして最後は伏線を投げっ放しにメタフィクション的に終了。

 

ブームは広がって、社員の誰かが借りてきたビデオを職場でみんなで観たり、営業の先輩が外出ついでに「森下くん、エヴァのプラモ買いに行こうよ!」とスーツ姿でおもちゃ屋に行ったり、テレビ局にマニアな人がいてレーザーディスクを全巻貸してくれたこともあった。繰り返し観ていたら「はよ返して」と催促されたりして。何かに夢中な時期は熱量でおかしくなってしまうが、振り返れば楽しい想い出だ。

 

1997年に公開された映画も観に行った。

その後10年経って開始した2007年からの新しい劇場版シリーズも追いかけてきた。

そして今年2021年、ついに完結編が公開。アニメ放送開始から25年。

スター・ウォーズもそうだったが、長い年月を経て体験していく作品には観る側の人生も組み込まれていく。

完結編を観ながら、エヴァンゲリオンは「エヴァンゲリオン+私」になってしまったのを感じた。

 

 

 

 

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ストーリーの考察はあちこちで散々されているので、ここではエヴァンゲリオンという作品と現実社会の関係について少し。

 

エヴァンゲリオンは現実社会のメタファーに満ち、現実の出来事とリンクしている。これは庵野監督が時代や社会、アニメ界の流れに敏感に反応し、作品の中に自身の正直な思いを描くタイプの作家だからだ。

 

エヴァンゲリオン制作のテーマは当時の企画書によれば


私たちは、観客である子供たちが本企画・アニメーションという「夢の中にある現実」を観て、「自分の意思で生きること」とは何かを感じ取って欲しい、と願っているのです。

また私たちは、子供たちが成長し大人になったとき、自らの「理性」で「現実の正義と愛」を考えてみてほしい、と願っているのです。


というものだった。
プレゼンテーションの方便もあるとは思うがここに嘘はないと思う。
私は宮崎駿が庵野秀明を評価しているのは手腕ではなく姿勢にあると思っている。この二人は作風は違えど、アニメーションをどういうつもりで作り、アニメーションで世の中にどう関わっていくかという姿勢は同じだ。

 

しかし、テレビ放送終了後、エヴァンゲリオンという作品はテーマ通りには受け取られなかった。ハッピーエンドの放棄、メタフィクションによる現実回帰では、観客には伝わらなかった。
未回収の伏線に注目が行き、主題そっちのけで謎解きが熱狂を生んだ。本来のターゲットである少年少女よりも「キャラ萌え」を求めた大人のマニアが中心になった。エヴァの大ヒットにより、その手法のみが注目され、アニメ界はますますメディアミックス、DVD売り上げ主義、オタク向けの作品とオタクだけで完結する閉じた世界になってしまった。

 

その後に公開した劇場版ではもっとストレートにオタクに向けて「目を覚ませ」と水をぶっかけるメタ表現をしたが、焼け石に水。庵野監督への批判の声も増した。作品中でシンジが世界を作り替えたように、エヴァンゲリオンはアニメ界を作り替えてしまった。もっと悪い方へ。
「書を捨てよ、町へ出よう」の狙いのはずが、逆にアニメ作品が現実逃避の場そのものになってしまった。

 

「なんでだよ。こんなことになってるなんて……」

 

とはヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qのシンジのセリフ。
エヴァンゲリオンが図らずも変えてしまったアニメ界に対する監督自身の言葉とも取れる。
新劇場版:Q の「Q」とは「旧」の意味もあるのではないか。
監督の意思とは逆の世界になってしまった「旧劇場版」までのエヴァンゲリオンが起こしたインパクト。新シリーズで再びエヴァンゲリオンを描いていく中で、現実に起きたあの悪夢のような状況をもう一度描いて見せる必要があった。それがQだったのではないかと思う。
「新劇場版は序、破、といい流れで来ていたのにひどい!」といろいろ言われたQだが、必要なステップだった。ただ、監督のその後数年の鬱状態のきっかけとなったと言われており、いかに身を削って作ってきたかを物語っている。

 

時が経ち、絶望を感じていたアニメ業界に帰ってきた庵野監督。
自分のやったことに落とし前をつけるために。
この落とし前、ケリをつけるというセリフも完結編で何度も出てくる。

 

作品に閉じこもったオタクたちは完結編であるシン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観てどう行動するだろうか。そしてアニメ界が本来の姿に戻るインパクトは起きるのか。

 

社会がどうなるかはわからないが
「旧劇場版」は北風。「シン—」は太陽だった。
監督自身が暖かさを持って描けたのかもしれない。
私は快く上着を脱いだ。