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THE FIRST SLAM DUNK

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この映画はやっぱりブログにも載せておくべき作品。

 

SLAM DUNKは週刊少年ジャンプで1990年から96年まで連載された井上雄彦によるバスケ漫画。サッカーがキャプ翼ならバスケはスラダン。テレビアニメも制作された超人気作品。

連載終了から四半世紀の時を経た昨年1月。新たなアニメーション映画になると発表され大きな話題に。実写化ではなくアニメ作品ということでファンもお喜びでした。
 
ところが公開までひと月とせまった頃、新作が当時のテレビアニメ版の声優ではなく新しいキャストになると発表されると批判が殺到。アニメの声優交代って思いのほか受け入れられない人が多いんですよね。これをきっかけに「アニメといってもフルCGか…」「花道の声ジャイアンしか浮かばない」「監督を原作者自身がやることが不安」とネガティブな意見が目立つようになってしまいました。
 
さて。
私もリアルタイム世代なので原作は夢中で読んでいました。なんなら読切の「楓パープル」(流川楓が主人公で、スラムダンクの元になった読切漫画)から好きな漫画です。最終回から10日後のエピソードを高校の黒板に描いたカードも部屋のどこかにあるはず。
公開初日に行く予定はなかったのですが何かに突き動かされるかのように思い立って観に行きました。
 
感想は
「井上雄彦を信じろ。」
ですね。
 
観た後、とにかく体を動かしたくなり映画館から歩いて家まで帰りました。
 

この映画、バスケシーンが最高なのは言うに及ばず、人間ドラマにも胸がいっぱいになります。
 
スラムダンクの主人公、桜木花道というのはやっぱり「週刊少年ジャンプ」のヒーローなんですよ。ド派手な赤い髪。長身。怪力。天性の身体能力。何者も恐れない底なしの自信。
ジャンプ少年たちは花道に憧れて成長していく。自分たちにはどんな才能が眠っているんだろうかと。そして多くは大人になるにつれ「あれは漫画の中の主人公だった」と気づいていく。社会に思い知らされていく。
 
時が経ち、井上雄彦はそんな元ジャンプ少年たちに再び「SLAM DUNK」で何を見せてくれるのか。
言ってしまいますが、この映画の主人公は桜木花道ではありません。
宮城リョータ。

バスケの選手としては小柄。天才と言われた兄と比べられてしまう凡才さ。家族に訪れる悲劇。心に抱えた悲しみ。母親とのわだかまり。

この映画ではリョータを現実的な、等身大の人間として描いています。

誰しも生きていればなにかあるんです。みんなきっとリョータのように踠いて生きてきたはず。

持たざる者、挫折した者、怖れる者はどう生きていくのか。

これはそんな我々の心に火を灯してくれる映画です。

 

年をとったせいか、映画のリョータがいじらしくてですね。

母親の気持ちもわかる。リョータの気持ちもわかる。うんうんと言いながら抱きしめてやりたい。

スラムダンクの連載終了後の作品「バガボンド」「リアル」で求道者とも思える作風を見せた井上雄彦の人物描写。さすがです。この映画でスラムダンクをさらに大人向けの作品に昇華させてくれました。

 

引っ込みがつかなくなっていまだに「絶対観に行かない」と意地を張ってるキミへ一言。
 
「大人になれよ…三井…!!」
 

いや、本当にね、あの井上雄彦自身が監督をしてくれたというのは幸せなことですよ。スラムダンクでこれ以上純度の高い映画なんてありえないわけで。映画館で観た方がいい。

 

 

 

 

ベルセルク 再 開

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嬉しくて泣いてる

 

 

亡くなった原作者三浦健太郎の盟友であり漫画家の森恒二は、最終回までのストーリーを本人から聞いていたらしい。

それを三浦のアシスタントたち「スタジオ我画」が描くと。

 

伝え聞いた物語を弟子たちが描くとか

教典だよね。

 

シン・ウルトラマン

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パンフの「ネタバレ注意」の帯、シン・ゴジラのパンフと全く同じものが巻かれてた。

 

ではネタバレしない感想を。

 

見終わって映画館を出て駐車場までめちゃくちゃ背筋真っ直ぐで歩いてしまうぐらいカッコよかったです。

 

キャストがいいですよ。斎藤工は背格好といい顔つきといいウルトラマンっぽい。禍特対のメンバーもキャラが立ってる。

 

 

以下ネタバレ注意!

 

シン・ゴジラとスタッフも近いし、似たような雰囲気の映画になるのかと思っていたが、ちゃんと「ウルトラマン」だった。

ジャンルとしては「怪獣映画」のシン・ゴジラに対しシン・ウルトラマンは元々のテレビシリーズの軽さ、コミカルさも持たせた「特撮ヒーロー」と言える。

 

では作品全体の印象もシン・ゴジラよりも軽いものだったかというとそうではない。自分にとってはシン・ゴジラより心に響くものがあった。

 

一定の完成度を超えている映画であれば作品の評価は観る人の心の状態で変わる。どういうテーマに感動したか、どのシーンに感動したかで今の自分が何を求めているかが写し出される。

 

 

禍威獣(カイジュウ)が暴れる山間部、現場に逃げ遅れた子どもを発見した禍特対(カトクタイ)の神永新二は保護のため走る。

そこへ宇宙からすさまじい速度で光の巨人(ウルトラマン)が降着。その衝撃波で舞い上がる土砂、飛来する土石。神永は身を挺して子どもを救った。

自分の命とひきかえに子どもを救った人間の行動を不思議に思ったのか。ウルトラマンは神永と融合し、禍特対の面々と交流する。

 

初めは人間への好奇心と少しの懺悔だったのかもしれない。だが人間を知るにつれ(あるいは神永の心が残っており影響したのか)、それは愛に変わっていく。

圧倒的な力を持つウルトラマンが小さく非力な人間に憧れている。そして本質的な意味で人間を救おうとする。

憐憫ではない。人間の個々の力は小さいが群れになった時の力を認め期待もしている。

 

終盤、超巨大でとてつもない戦闘力を持つゼットンに、敵わないとわかっていながらも地球を守るため戦いを挑むウルトラマン。

胸を打つシーンだ。

もし劇場に来た子どもたちが「がんばえー!」と叫ぼうものなら号泣していたと思う。

 

自分のために生きる時代だ。

国のため会社のため誰かのためではない。自分らしく、自分の思い通りに生きよう。個を重んじ多様性を認めていこうという世の中だ。

もちろん個人の幸せを求める生き方は賛成だし自分もそう願う。その意味では良い時代になりつつあると思う。

 

だがこの追い風の中「自分本位」「利己」で何が悪いという主張も増えつつあるのも事実。

炎上しても注目されれば収益が上がるビジネスシステム。目的のためなら手段を選ばず。(私の苦手な言葉です)

国のためと言いながら私利私欲に走る政治家。職場や職業上の権限を悪用し私腹を肥やす上役たち。お手本となるべき人たちがこれでは下はバカらしくてやってらんねえとなる。道徳や倫理はどこかへ行く。

 

シン・ウルトラマンは、この尊厳が希薄となった世の中に、今だからこそ、ピュアなヒーローを描いたのだ。

クライマックス、人類の命運と神永(ウルトラマン)の命を選ぶ時、禍特対のリーダー田村は迷いなく部下の神永の命を優先する。(この田村の即断にも涙する)

だが神永は、人間を救えるなら自分は構わない、ときっぱりと言う。

自己犠牲を賛美する時代ではない。

しかし、利他の行動に崇高な美しさを感じるのは人間の実相だ。

ウルトラマンは行動で示す。恐れるな。誇り高くあれと。

 

禍威獣は漢字でわかるとおりコロナ禍だ。ベータカプセルをめぐる争いは核に象徴される強大な力を求める国の姿だ。

人類が危機に瀕している時もこのありさまかと。

人間、今こそ力を合わせる時だろうと。

一人ひとりは小さいが大きな知恵と力を生むはずだと。

 

 

見終わった後、数日ウルトラマンのことを考えるぐらいに心に響いた。

つまりは自分が今、求めていたのはピュアなヒーローだったということだ。

 

そんなにウルトラマンが好きになったのか、人間。

 

と、ゾーフィに言われると思う。

 

 

 

 

 

 

ベルセルク

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2021年5月6日、漫画家の三浦健太郎さんがご逝去されました。

 

ベルセルクはここ数年(もっと?)私が一番新刊を楽しみにしていた漫画でした。

初見の印象は「いや、こんなひどい話あるか…」。

救いのないどん底の中でもがきつづける主人公ガッツ。

凄惨すぎる物語は正直苦手ですが、ベルセルクには絶望の中にも一条の光がありました。人間讃歌が根底にある。

壮大なストーリーと狂気を感じるほどの圧倒的な描き込み。遅々として新刊は出ませんでしたが惹きつけて離さない魅力がありました。

1989年に始まり30年。既刊は40巻。

ゴールに辿り着くにはまだまだ山が四つ五つ。明かされていない秘密も山盛り。

「ベルセルクは作者が死ぬまでに終わらない」と冗談で言われていましたが、まさか。

前回投稿した、綺麗に完結を迎えたエヴァンゲリオンとは対照的。

喪失感。

ネットに流れてくる作者を偲ぶさまざまなつぶやきの中に

「三浦先生いわく、ベルセルクはハッピーエンドになる」って、聞いて- との話。

 

うん。きっと、そのはずだ。

 

 

 

エヴァンゲリオン

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ネタバレはしないのでご安心を。

 

テレビシリーズが放送終了した1996年。

私は当時、熊本の広告代理店に勤務。熊本では放映されておらずインターネットもそこまで普及していない時代。

「エヴァンゲリオンというとんでもないアニメがあるらしい」と社内で話題になりはじめ、その存在を知った。

ジブリ以外の作品でアニメが話題になることはめずらしかった。ましてやエヴァンゲリオンは巨大ロボットアニメ。だがその反響は普段アニメに興味がない層からもその名が出るほどだった。

 

最初はレンタルビデオで観た。

衝撃だった。DTP系フォント[マティスEB]を使用した洗練されたタイトルデザイン。主役らしくない禍々しいデザインのロボット。というかそもそもロボットじゃなかった。全く説明されないまま進んでいくストーリー。使徒と呼ばれる簡単すぎる造形の謎の敵。宗教から引用された名を持つ難解な設定の数々。人間の内面に深く切り込んでいくシナリオ。人間ドラマだけでエヴァが全く出てこない回すらある。ビデオが壊れたかと思うほど長く沈黙させるなどの特異な演出。そして最後は伏線を投げっ放しにメタフィクション的に終了。

 

ブームは広がって、社員の誰かが借りてきたビデオを職場でみんなで観たり、営業の先輩が外出ついでに「森下くん、エヴァのプラモ買いに行こうよ!」とスーツ姿でおもちゃ屋に行ったり、テレビ局にマニアな人がいてレーザーディスクを全巻貸してくれたこともあった。繰り返し観ていたら「はよ返して」と催促されたりして。何かに夢中な時期は熱量でおかしくなってしまうが、振り返れば楽しい想い出だ。

 

1997年に公開された映画も観に行った。

その後10年経って開始した2007年からの新しい劇場版シリーズも追いかけてきた。

そして今年2021年、ついに完結編が公開。アニメ放送開始から25年。

スター・ウォーズもそうだったが、長い年月を経て体験していく作品には観る側の人生も組み込まれていく。

完結編を観ながら、エヴァンゲリオンは「エヴァンゲリオン+私」になってしまったのを感じた。

 

 

 

 

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ストーリーの考察はあちこちで散々されているので、ここではエヴァンゲリオンという作品と現実社会の関係について少し。

 

エヴァンゲリオンは現実社会のメタファーに満ち、現実の出来事とリンクしている。これは庵野監督が時代や社会、アニメ界の流れに敏感に反応し、作品の中に自身の正直な思いを描くタイプの作家だからだ。

 

エヴァンゲリオン制作のテーマは当時の企画書によれば


私たちは、観客である子供たちが本企画・アニメーションという「夢の中にある現実」を観て、「自分の意思で生きること」とは何かを感じ取って欲しい、と願っているのです。

また私たちは、子供たちが成長し大人になったとき、自らの「理性」で「現実の正義と愛」を考えてみてほしい、と願っているのです。


というものだった。
プレゼンテーションの方便もあるとは思うがここに嘘はないと思う。
私は宮崎駿が庵野秀明を評価しているのは手腕ではなく姿勢にあると思っている。この二人は作風は違えど、アニメーションをどういうつもりで作り、アニメーションで世の中にどう関わっていくかという姿勢は同じだ。

 

しかし、テレビ放送終了後、エヴァンゲリオンという作品はテーマ通りには受け取られなかった。ハッピーエンドの放棄、メタフィクションによる現実回帰では、観客には伝わらなかった。
未回収の伏線に注目が行き、主題そっちのけで謎解きが熱狂を生んだ。本来のターゲットである少年少女よりも「キャラ萌え」を求めた大人のマニアが中心になった。エヴァの大ヒットにより、その手法のみが注目され、アニメ界はますますメディアミックス、DVD売り上げ主義、オタク向けの作品とオタクだけで完結する閉じた世界になってしまった。

 

その後に公開した劇場版ではもっとストレートにオタクに向けて「目を覚ませ」と水をぶっかけるメタ表現をしたが、焼け石に水。庵野監督への批判の声も増した。作品中でシンジが世界を作り替えたように、エヴァンゲリオンはアニメ界を作り替えてしまった。もっと悪い方へ。
「書を捨てよ、町へ出よう」の狙いのはずが、逆にアニメ作品が現実逃避の場そのものになってしまった。

 

「なんでだよ。こんなことになってるなんて……」

 

とはヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qのシンジのセリフ。
エヴァンゲリオンが図らずも変えてしまったアニメ界に対する監督自身の言葉とも取れる。
新劇場版:Q の「Q」とは「旧」の意味もあるのではないか。
監督の意思とは逆の世界になってしまった「旧劇場版」までのエヴァンゲリオンが起こしたインパクト。新シリーズで再びエヴァンゲリオンを描いていく中で、現実に起きたあの悪夢のような状況をもう一度描いて見せる必要があった。それがQだったのではないかと思う。
「新劇場版は序、破、といい流れで来ていたのにひどい!」といろいろ言われたQだが、必要なステップだった。ただ、監督のその後数年の鬱状態のきっかけとなったと言われており、いかに身を削って作ってきたかを物語っている。

 

時が経ち、絶望を感じていたアニメ業界に帰ってきた庵野監督。
自分のやったことに落とし前をつけるために。
この落とし前、ケリをつけるというセリフも完結編で何度も出てくる。

 

作品に閉じこもったオタクたちは完結編であるシン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観てどう行動するだろうか。そしてアニメ界が本来の姿に戻るインパクトは起きるのか。

 

社会がどうなるかはわからないが
「旧劇場版」は北風。「シン—」は太陽だった。
監督自身が暖かさを持って描けたのかもしれない。
私は快く上着を脱いだ。